市民ニュースサイトの行く末とかどうとか

ここ数年この分野に関わって今感じている事

オーマイニュース(などの市民ニュースサイト)がじり貧にならないためには

必須条件として、泉のようにわき出てくる大量の記事が必要なのは確かだろう。誰も記事を書かなければ破綻するシステムである以上、一定数以上の高品質の記事を「上澄み」と捉えるならば、その下に大量の低品質な記事の存在も織り込みつつ、効率的にふるい落としていく必要がある。その前提として、記事を書くための強烈なモチベーションの提供は必要不可欠なはず。

モチベーションをどのように生み出すべきか

他の分野はともかく、「市民記者」という肩書きを背負って記事を書く人間には、少なからず「自分の記事で社会を動かしたい」という下心野心があるはず。だから、「成功事例」が常に一定のペースで生まれ続ける土壌を作る事が、運営サイドは最も留意すべきではなかろうか。

成功事例とは?

有り体に言えば、市民記者の書いた記事が、たとえば本物の新聞記事で取り上げられ、他の紙媒体(雑誌等)にも載り、あわよくばテレビにも映ったりして一種のムーブメントを引き起こし、社会に一定の結果を残す、というシナリオ。
ただ、これを実現させるには波及先の媒体との連携が不可欠。でもって、このシナリオそのものが波及先の既得権益に土足で入り込む可能性があり、既に波及先の人々がその点にかなりの警戒をしているという問題がある(ように思う)。
かつて韓国のオーマイニュース盧武鉉政権樹立に大きく貢献したらしい。聞くところによると、盧武鉉が失脚した今でもサイト自体は活況だという。きっと、「大統領選」という最上級の成功体験が未だ記者達の記憶から失われていないからこそなのだろう。じり貧グダグダで藻屑のように消えた日本版との最大の違いはそこにあるように思う。
オーマイニュースにせよ他の同種のサイトにせよ、そろそろこういった成功事例が求められている時期に来ているように思う。運営サイドがサイトの存続と発展を望むのであれば、いかにして成功事例をコンスタントに生み出すかにかかっていると思う。下世話な表現をするならば、記者達の前にぶら下げるニンジンを、そろそろ「紙切れに印刷されたニンジンの写真」から「本物のニンジン」に差し替えるべきなんじゃなかろうか、と。
自分にとって、オーマイニュースの鳥越編集長や元木編集長というのは格好の攻撃目標だった。新聞やテレビといった古いメディアでそれなりの地位を占める彼らを批判、攻撃する事でとかく何らかの反応を引き起こし、連鎖的に古いメディアへ波及させ、何らかの動きが生まれるのではないかという、淡い期待が心底にあった。結果はご覧の通りだったが。

成功の下地はあるはず

2ちゃんねる発の「電車男」が映画やテレビドラマで相応にヒットしたり、私生活を面白おかしく書いた個人ブログが書籍化したりと、ネット内で完結していたコンテンツがネットの外へと浸食するケースも珍しくなくなった。そういう観点から見れば、市民記者というカテゴリだけがネットから永久に抜け出せないという理屈は無い。意図せずとも、必ずどこかでブレイクスルーが起こるはず。それがどこかで起こるのを黙って待つか、それとも自分とこで引きずり出すか。
まあ、全ては結果でしか語れない事なんだけどね。このエントリも、オーマイニュースの失敗から語っているものに過ぎないし。